TEXT by MAYA KUROSAWA

 


「ナマに限る」といわれるものはたくさんあります。
音楽、演劇、ダンス、それからスポーツも。(それからビールも。)もちろん美術も。ライブ感のあるもの、ハプニング性のあるものはもちろんそうだと思うのですが、絵画や写真のような動かないものでさえも、やはり「ナマ」だと思うのです。それは、印刷物だと色がどうだとかスケール感がどうといった物理科学的な問題よりも、もっと強い「ナマのちから」みたいなものが働いているのではないかと思っています。
例えば、絵を見にいきます。
見ている途中、ふと気がつくと気持ちのうちでなにかがいっぱいになっており、溢れんばかり、あたかも表面張力でギリギリ保たれた水面のような状態になっていることがあります。ちょうど金属が融点に達してゆっくり溶けだしたような粘度の高い高温の液体、そんなものが静かに湧きおこっていて頭から指先までを流れている感じです。おそらくそれはアイデアやプラン、もっと単純で粗い創作意欲のようなものです。思考と指先が光ファイバーで高速に完全につながっている気さえして、今、ここに描くものがあったら絶対すごいものが描けるぞ、紙、紙!と思いつつうっかりするとすぐ指先から呼吸から漏れていってしまいそうなので、そうっと歩いてみたりして。熱を保つよう、なんども思い返して、こぼさないようにして、残りの会場内を熱病患者のようにぼんやりと神妙な顔付きで歩き回ってみたりして。
別にそこまでいかなくてもいいのですが。ただ、私は「ここのニューッとした筆致は描いてて気持ちいいだろうな。」とか「この緩いキワはぞくぞくくる。」とか、かなりフェティッシュな見方を絵画に関してはしている事が多く、そうするとたまにそんな状態になっています。(悲しい事に家に帰る頃にはすっかりその熱が下がってしまう事も多いので、未だにすごい作品が描かれることもなく。閑話休題。)
ふつうに「ああ、いいなあ」と思えたり、どうしようもなくおかしいだけでもいいし、見終わったあと何故か元気が出てくる展覧会に出会えたりした時、ナマで見られた事をとても嬉しく思います。たしかにそれはその作品が(その展覧会が)良いと言う事なのですが、そこにはやはり「ナマのちから」あるいは「ナマに出会うちから」みたいなものが作用しているような気がします。美術に神様がいるとしたら、その時、ちょっとは側に居てくれたんじゃないかと思うのです。
私が、美術を見に行くのが好きなのは、自分の目と感覚でみてみたいというのもありますが、ただもう、理屈抜きにナマものに出会えるのが嬉しくてしょうがないのだと思います。
スケジュール的な、地理的な、金銭的な、諸問題はあると思いますが、やっぱりいいものはたくさんの人にナマで見てほしいです。「いいものはナマ。」お寿司やさんも、そう言っています。

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第1回

黒沢まやプロフィール

1972
30年後の流行を先取りし目黒川沿いにうまれる
1995
多摩美術大学絵画科油画専攻卒業
卒業後、現代美術にはまりだし美術関係のボランティア、ワークショップ、その周辺に中途半端に顔を出しながら現在に至る。絵も描けるので、その辺でなんとかならないかと夢を見続ける30歳




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