小川良子
OGAWA Ryoko
(Nagoya)



APPLE
N-mark collection2000

名古屋港の倉庫群で
開催予定の展覧会

2000/10/10 〜 10/15

アーティスト
澤登恭子SWANOBORI Kyoko (Tokyo)
木村崇人KIMURA Takahito (Tokyo)
北山美那子KITAYAMA Minako (Nagoya)
高平真帆 TAKAHIRA Maho (Fukuoka)
佐藤優 SATO Yu
(Tokyo)
溝口康彦 MIZOGUCHI Yasuhiko (Nagoya)
小川良子 OGAWA Ryoko
(Nagoya)

 

ビデオプログラム
詳細は会場にて発表

 

 

 

 

 

 「りんごは、万有引力を気付かせたくて落ちたんじゃない」という思いにかられて、『APPLE』に参加した。りんごはただ落ちた。それだけ。りんごは生きている。私も生きている。その中の1つのアクションであるだけだ。

それぞれのりんごは、無関心のようでとても自然に協調したと思う。

 3度目のN-markプレゼンツへの参加であるが、私とN-markとの関わり方もそれぞれに違っていた。昨年の『PORT PEOPLE』では事前に企画書を提出する形であったし、個展の際には何度もディスカッションを重ねた。今回は放任されていた。N-markからは、企画意図などの書かれた資料を一応渡されたが、 「あんまり読まないで」と言われた。そのときどき私自身も変わっている。企画書は、今まで自分だけにわかるように考えたり書いてきた事柄を、無理やりにでも誰かにわかるようにまとめねばならないという状況をつくり出し、作品製作を促した。個展については、構想の進行状況を定期的にN-markに報告する形をとったが、説明をすることで構想が一度外へ出る。外から見て一歩一歩確認しながら進むことができる。どちらの時にも考えを明解にする効果があった。

私にとって今回は、挑戦であった。こそこそと作戦をねる必要があった。それとは気付かれないように、しなやかに確実に。誰に気付かれないようにか。私以外のすべての人に。そして、一気に仕掛けることにしたのだ。そのために、誰にも明らかにするわけにはいかなかった。明らかにすること、表明することそのものを考察し、その実行を最終目的に据えたからだ。

 『集団と個人は同時に成立する』これが今回のきっかけになった言葉だった。個人は個人である根拠を自身のうちに見ることはできない。集団の一員であることによってしか個人となり得ない。集団とは、同じ現実 を共有する人々である。現実は人々がそう思っているから現実であるのだ。私はこのことによって、ほかの人々に何かを表明するという行為は個人が個人であろうとする、現実を生きようとする必然的なアクションなのではないか、と考えた。山に隠って誰にも会わず、誰にも見せないのに作品を製作するということは本来あり得ないのだ。個人のアイデンティティは、集団の中の個人の居場所を示すものであり、まったく一人きりでは確立し得ない。現実は複数の人間が共有する妄想である。大勢の人が共有する妄想もあれば、たった二人だけのそれもある。二人以上で共有する妄想は、おのおのの中の何かを裏付ける。その時はじめて二人の間に関係が成立する。同時に二人をだますもの。それが今回の作品の形態である。私の作品ははじめて二人称に挑戦したのだ。

最後に私がN-markの野田氏宛てに返信したメールの一部を併載して、終わりにしたいと思う。

” 〜 「なぜ見せるのか」についての意見ですが、今回の作品はこの事抜きには語ることはできず、それについて、現時点での明解な答えを出したつもりでいます。実際 野田君の言うように、解決しないまま作品を発表していた今までは、矛盾していたかも知れないし、確実に未熟であったと思います。しかし、そういった葛藤ややり取りそのものがアートであるべきはずだと考えますし、どこかの時点で解決した事にして、プロ意識で武装するのは欺瞞であると考えます。アーティストがプロ意識を持つ事はある意味危険です。一段上に立って何かを伝えるようなつもりでいるのは間違っていると思います。
  私は今回の作品をつくり出す上で、アートは生きる行為そのものだということを改めて痛感すると共に、別段特別なことではないということを確認しました。

りんごはその生涯の過程として、地面に落ちた。見るひとは、たまたま落ちるのを見かけた。見る機会を持ったのです。”

小川良子

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