野田利也
noda toshiya
(
N-mark)



APPLE
N-mark collection2000

名古屋港の倉庫群で
開催予定の展覧会

2000/10/10 〜 10/15

アーティスト
澤登恭子SWANOBORI Kyoko (Tokyo)
木村崇人KIMURA Takahito (Tokyo)
北山美那子KITAYAMA Minako (Nagoya)
高平真帆 TAKAHIRA Maho (Fukuoka)
佐藤優 SATO Yu
(Tokyo)
溝口康彦 MIZOGUCHI Yasuhiko (Nagoya)
小川良子 OGAWA Ryoko
(Nagoya)

 

ビデオプログラム
詳細は会場にて発表

 

私がそれまでに信じてきた「現代美術」とは手の「ワザ」であり、その作品は作家の個人史やそれにいたる(ドローイングや習作など)プロセスに裏打ちされたものであった。多少の逸脱感があっても「絵画」「彫刻」という範疇から大きくはずれるものでなかった。しかし今回「APPLE」で目にした作品群はそういった個人的尺度を破壊されるものであった。

 現象的作品は後生にその意味を伝えようとする歴史的役割を放棄し、「展覧会」というきわめて短い時間にだけ瞬くものに思える。木村、沢登の作品は作家本人によるパフォーマンスのときに最も魅力を発揮する装置的色合いが強く、北山の作品はインスタレーション作品そのものよりも彼女自身によるパフォーマンスの方がインパクトが強いものとなっていた。また、小川の作品は鑑賞者が体験して初めて成立するものでそれが機能していないときの作品の意味合いを他者に伝えるものではなかった。こうした潮流はもちろん既知なものであったが、あくまで「歴史的」なものであった。しかし「APPLE」ではそれが同(若い)世代の人間による「リアル」として出現したのである。

 作品から「手のワザ」が消えたとき作品は身体性を喪失させるかと思わせたが、今回の作家たちの作品の大半はその逆でますます身体性を前面に押し出すものとなった。しかしそれは痕跡としてではなく、痕跡を残すための行為としてである。
それを象徴しているのが澤登の作品である。セクシーなドレスに身を包みレコードプレーヤーに天井からしたたり落ちる蜂蜜を舐めるという作品は明らかに身体的、肉体的女性性をアピールするものであった。その演出は女性臭をいかんなく発揮し容易に性交を想起させる「なめかしさ」をもっていた。その芸術におけるエロティシズムはアラーキーが自身の作品について「射精させるための写真」といった発言や、大島渚が「愛のコリーダ」について「完全なるポルノを目指した」といった発言にみられた「つきぬけた」感覚がある。それは彼女自身が作品について「やまし」さを完全否定している「いさぎよさ」によるものであろう。

 水戸芸術館で見た木村の作品は「装置」という印象が強く、ただそこに置かれているものを見るだけでは十分その魅力を知ることはできないものであった。(幸運にも私は作家にその作品を「使用」させてもらった)今回の「APPLE」での作品も電気を発生、集める、といった「装置」的ないろあいが強かったが、円環状に並べられたブリキのバケツ、錆びた鉄の棒、色とりどりのコード、中央に置かれた錆びたテーブルその上に置かれた図鑑や蛍光灯、目覚まし時計や小さなモーターにくくりつけられた植物など・・・それらのアイテムがどことなくマッドサイエンティストの研究室といった感じを演出し、「うらびれた倉庫」での展示がよりいっそう雰囲気を盛り立てたインスタレーション作品として感じ取れた。しかし、その作品をよりおもしろくさせたのはそれらを用いて行われた木村自身のパフォーマンスである。スーツでクールに決めた木村はバケツの海水等により発生する微量の電気を集め時計やモーターを動かし、蛍光灯に灯りを点す。地球、宇宙といった膨大のエネルギー源から生身の人間の多大な運動(展示に際し彼は名古屋港の海水をバケツに何杯も汲み上げている)によって微量なエネルギー採取する。一見滑稽にも見えるの姿に科学少年の「夢」や「ロマン」を感じたりもする。

 北山の作品は2つの方向から見ることができるものであった。ひとつは「さよならミルク」という過去何度か単発的に行われたパフォーマンスと、その際に使用された雪印牛乳との関係が提示である。その関係とは「製品汚染事件」によって信頼を失墜させた雪印乳業に対しての「救いの手」である。しかしそれは一見「救いの手」のようであるが「彼女のイジワル」のようにも感じられる。なぜなら常識的に考えて会社全体が傾いてしまうような不祥事を抱え、多数の被害者への対応や信頼回復におわれている企業が一アーティストの相手をしている暇などないと簡単に察しがつくからである。それでも雪印は北山が送ったメールに対して丁重に彼女の「救いの手」に対する断りのメールを送ってきている。それは予想された回答でありクスクスといたずらっぽく笑う彼女の姿が想像される。(筆者の深読みしすぎかもしれませんが・・・)もう一つの見方は「さよならミルク」というパフォーマンスそのものを自閉的に行った記録の提示である。それまで観客を集めた場において上演されてきたものを日常的に自室で行うことでそれは彼女にとって「密かな楽しみ」という自慰的なもへと変化した。それまでの彼女の作品は幼稚で、少女的なテイストが強いモノであったが、今回は精神的、身体的エクスタシーというそれまでもっとも遠い位置にあったものを表現していたのかもしれない。

 弾力性のある布を二人で引っ張り合う(その中には球体が入っていてそれをその弾力のよって互いに交換する)作品を提示したのが小川である。彼女は「集団のおける居心地の悪さ」に関する作品を提示すると展覧会前に語っていた。「居心地」は恐らくその集団における自身のアイデンティティーの不確かさにあると思われる。自分の居場所それは自分自身であり、それを外部に対して表明することがアイデンティティーなのであろう。世の中に自分一人であるのであればそんなことをする必要はないのだから。引き寄せた布の中に入っている球体を解き放ったときそれは行われ、それが相手の手元に届いたとき集団(一人以上で構成される社会)における存在が確認されるのであろう。互いに布を引き合い、球体を放つタイミングを見計らう、それは社会が均衡を保っている姿を具現化したもののようにも見える。

佐藤、溝口の平面作品は時間の蓄積が「厚み」を形成し見る者の全面に迫ってくるというものではく、どこまでも水平(もしくは垂直)に広がっていくもので、その消失点のなさ、または複数化は時代の気分なのかなぁと思いました。
二人とも植物(佐藤は花を溝口は「盆栽」)をモチーフにしていましたが、佐藤の作品は外部へエネルギーを放出させ、溝口の作品は内部(中心)へとエネルギーを集中させるといった感じで、この二つの対比は興味深いものがあった。

高平の作品はキタノ映画の暴力シーンを想起させるものであった。「ばっと来てぱっと終わる」突発的に起こって瞬時に全てが終わっている。非常にそっけなくあるが現実的である。省略の美である。高平の作品にも同じことが言える。無駄なもの(今回の作品の場合は本の文字)はそぎ落とし、核心だけを見せつける。展示も既成のテーブルにポツンとおかれただけで非常にそっけないもので、作家自身も会場に姿を現さない。このスタイルが作品のクールさを際立たせていた。

今回参加した作家にとって最も重要なのは「現在」であり、「現在」が「未来」においてどう評価されようと大した問題ではないのであろう。「見る前に跳ぶ」ことができる「いさぎよさ」をもった彼らにこそあたらしい美術の発見が可能なのかもしれない。

野田利也/N-mark

 

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